710年、「藤原京」から「平城京」に遷都され、天皇が生活する「内裏」、天皇が出座して政務をみたり、儀式や饗宴に臨む「大極殿」、役人が政務を行う「朝堂院」があった所が「平城宮」です。 今でいえば、いわば皇居と霞ヶ関の官庁街が一緒になった所と言ってよいでしょう。
「長岡京」に遷都されるまでの74年間を「奈良時代」と呼んでいます。
奈良時代は律令国家体制が完成され、仏教を定着させるなど対外的にも日本国家として存在感が増した時代でした。
遣唐使を積極的に派遣するなど海外情勢の収集、文化の導入を図り、「シルクロードの終着駅」とも言われています。
仏教文化を始め、「正倉院」の宝物を見ても分かるように国際色豊かな文化の華が開き、この文化を「天平文化」と呼んでいます。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり |
小野老(巻3、328) |
天平という名から平和な時代を想像してしまいますが、実際は政争の激しい、激動の時代でした。
海外では唐の盛衰期にあたり、外交面でも予断の許せない時期がありました。
移りゆく時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも |
大伴家持(巻20、4483) |
平城宮には12の門があり、各々有力氏族の姓が付与されており、なかでも、最も重要な正門「朱雀門」は「大伴氏」の姓を付与し「大伴門」とも呼ばれていました。
奈良時代に『万葉集』の最終巻が完結され、これを編纂したのが「大伴家持」といわれています。
家持は歌人である前に政治家であり、古来より代々政府高官を輩出している名門「大伴氏」の嫡流ということで、政争の渦に巻き込まれてしまうことになります。
718年に生まれた家持は、地方への赴任の時期を除きその生涯の大半を平城京にある「佐保」の地で過ごしました。
家持は都が「長岡」に遷都された2年後、68歳でその生涯を閉じるのですが、まさに奈良時代を生き抜いた人でした。
佐保山茶論では佐保にゆかりある大伴家持の視点で激動の奈良時代を捉えていきたいと思っています。 |