◇「奈良時代の佐保」

 平城(へいじょう)の都の北側には、平城山(ならやま)が続いている。その南東側の麓に広がるのが、万葉びとが愛した佐保の地である。この佐保という場所、南に向かいなだらかな傾斜になっていて景観もよく、とにかく住居を構えるには最高の場所であったのだろう。多くの貴族がここに居を構えた。万葉の歌人では、大伴家持がそうである。また、天武天皇の孫で時の左大臣であった長屋王もこの地に「佐保楼」と呼ばれた高殿をつくった。ここでは、風雅な人びとが日ごと、夜ごとに集うサロンのようなものも催されており、いかにも優雅で閑雅なイメージをもつものが、佐保という場所である。(文:奈良県立万葉文化館名誉館長・池坊短期大学学長・国際日本文化研究センター名誉教授・京都市立芸術大学名誉教授・大阪女子大学各名誉教授・高志の国文学館館長 中西 進著「よみがえる万葉大和路」―平城遷都1300年記念出版―(ランダムハウス講談社)より。)


◇「佐保と大伴家持」

    駒澤大学名誉教授・高岡市万葉歴史館名誉館長 小野 寛

 平城京の大伴氏の本邸は「佐保」の地にあった。大伴家持の祖父大伴安麻呂は大納言として和銅3年(710)の平城遷都にあたり、その新邸の土地を「佐保」に与えられた。万葉集に大伴坂上郎女のことを「郎女は佐保大納言卿の女なり」とある。大納言大伴安麻呂はその住まいから「佐保大納言」と呼ばれたのであった。
 大納言正三位大伴安麻呂は平城遷都後4年、和銅7年(714)5月1日に薨じた。元明天皇はその死を深く悼み、従二位を賜わった。その長子旅人は和銅8年5月、従四位上で中務卿(中務省の長官)に任ぜられ、養老2年(718)3月中納言になり、同3年正月正四位下に叙せられている。大伴旅人もこの佐保の大伴本邸から太政官庁へ出仕していたに違いない。旅人は大宰帥を兼任してしばらく佐保の邸を留守にしているが、天平2年10月大納言に昇任して帰京した。翌3年正月従二位に叙せられ、その年7月薨じた。その時嫡男家持はまだ14歳だった。その翌年の日付で家持の叔母坂上郎女の歌がある。

世の常に 聞けば苦しき 呼子鳥 声なつかしき 時にはなりぬ(巻8-1447)
 右の一首、天平四年三月一日に、佐保宅にして作る。

坂上郎女は旅人の死後、その妹として、大伴家の家刀自である母石川命婦を助けて、家持を筆頭にまだ幼い遺児たちの面倒を見るべく、佐保の大伴本邸に移り住んでいたのだろうと思われる。いつの作とは特定できないが、恐らくこのころだろう、次の歌がある。

 天皇に献る歌一首(大伴坂上郎女、佐保宅に在りて作る)
あしひきの 山にし居れば 風流(みやび)無み わがするわざを とがめたまふな(巻4-721)

聖武天皇に献上した歌で、「あしひきの山にし居れば」は佐保の邸の山近き郊外にあることを強調し謙遜したものである。山に家があるのではない。天平5年(733)、佐保の宅から「西の宅」へ帰る家持を送るという坂上郎女の歌がある。

 大伴坂上郎女、姪(をひ)家持の佐保より西の宅に還帰るに与ふる歌
わが背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで(巻6-979)

佐保の地に吹く風を「佐保風」と言った。佐保路を帰ってゆく家持の着ている衣服が薄いのを寒かろうと案じる叔母の親心がうるわしい。しかし佐保邸の主であるはずの家持が佐保から帰るという「西の宅」とはどういう所だろうか。そこへ帰るのに「佐保風」が吹いているというのは、「西の宅」も佐保にあったのである。佐保は外京の地と決まっているわけではなく、その西方は京域内に入っていた。大伴家は当初その京域内の佐保の地に宅地を支給されたのだろう。今の不退寺の南から一条高校のあたりも佐保である。やがてそこから更に広い土地を求めて外京の郊外地へ移ったものと考えられる。「西の宅」はその大伴旧宅だったのだろう(川口常孝)。
 天平11年(739)夏6月に、家持は妾を亡くした。家持22歳である。家持はその悲傷の思いを歌に詠んだ。

今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜を寝む(巻3-462)

その歌に弟書持がすぐに唱和した。

長き夜を ひとりや寝むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに(巻3-463)

これから秋の長夜を一人で寝るのかと兄さんが言うので亡くなった人が思い出されますという。その時書持も一諸に暮らしていたと思われ、兄の妾も同じ屋根の下に暮らしていたと思われる。屋敷の軒下に咲いたナデシコはその妾が家持のために植えたものだった。

秋さらば 見つつ偲へと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも(巻3-464)

翌7月になっても家持の悲しみはまだ癒えず、また歌った。

家ざかり います吾妹(わぎも)を 留めかね 山隠しつれ 心どもなし(巻3-471)

佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思ひ出で 泣かぬ日はなし(巻3-473)

昔こそ 外にも見しか 吾妹子(わぎもこ)が 奥つきと思へば 愛(は)しき佐保山(巻3-474)

妾は佐保山に葬られたのであった。佐保山はのちに弟書持も葬られる大伴家の墓地があった。天平18年(746)秋9月書持の訃報を越中で聞いて作った家持の哀傷の挽歌に、

・・・佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末(こぬれ)に 白雲に 立ちたなびくと 我に告げつる(巻17-3957)

とある。佐保の大伴本邸から佐保の村里を通り抜けて山に入って行くのである。
 家持は天平18年(746)から天平勝宝3年(751)まで5年間、越中守として北国越中で暮らしたが、その間、奈良の都への望郷の思いの消えることはなかった。天平20年(748)春3月、都から左大臣橘家の使者として歌人田辺福麻呂が来越した時、家持は越中随一の名勝布勢水海に案内し、船遊びしながら歌を交わしたが、その歌の中に、

垂姫の 浦を漕ぐ舟 梶間にも 奈良の我家を 忘れて思へや(巻18-4048)

という歌がある。布勢水海遊覧の中で漕ぐ舟の梶を引く合い間も忘れないという奈良の我家は、この佐保の宅である。
 天平勝宝2年(750)の春3月1日から3日まで「家持越中秀吟」と称せられる連作12首を残したが、その2日に柳の若葉を手折って都を思った。

春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ(巻19-4142)

越中の春の日ざしの中に芽生える柳の若葉を見ると都大路の柳並木が思い出されるのだった。
 家持は天平勝宝3年(751)7月、少納言に任じられて帰京した。少納言は侍従を兼務する。家持は帰京の翌年、天平勝宝4年4月9日に行われた東大寺盧舎那大仏の開眼会の盛儀に列席し、その翌5年2月には左大臣橘諸兄邸の宴席につらなり、瑞々しい青柳の枝をかづらにして、橘家の千代の栄えを寿いだが、その数日後2月23日の夕べ、佐保の大伴本邸にいて、人知れぬ憂いに沈みながら歌心をかき立てた。「興に依りて作る歌二首」を作った。家持の「春愁絶唱」と言われる。

春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐいす鳴くも(巻19-4290)

わがやどの いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕へかも(巻19-4291)

春の庭に続く佐保の野に春霞がたなびいて何となく切なくもの悲しい。夕暮れの迫る光の中に聞くうぐいすの声が家持の心に切なくひびく。その心の風景を歌にした。第三句の「うら悲し」が第1首の中心である。第2首の「わがやど」は家のある所、庭である。家持は庭に立ってものさびしい夕暮れの光の中にいた。その頬にかすかに触れる微風があった。小さな群竹を吹き通る風の音を感じた。それを「かそけき」と歌った。心にしみる佐保の夕べである。その2日後、2月25日にも家持はひとりで物思ひにふけっていた。そしてその欝結した心を晴らすべく、また歌を作った。

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(巻19-4292)

春の日は遅く暮れなずむ。冬の落日の早さに比べて春の日は遅く感じる。それを家持は「うらうらに照れる春日」と歌った。春の日が暮れるともなくのんびりと照らしている空に、ひばりが1羽さえずりながら天高く上って行った。天空に吸い込まれて行くようだ。それを見て家持の心は深く沈む。切なく悲しい。自分はひとりだ。考えることはひとりでしかありえない。それを家持は知覚した。この1首は家持の到り着いた最高の境地である。家持の絶唱3首は、家持のひとり物思いに沈む佐保の大伴本邸で作られたのだろう。その跡地と推定される一角に「佐保山茶論」がある。                  


◇「万葉集と大伴家持」 

    駒澤大学名誉教授・高岡市万葉歴史館名誉館長 小野 寛

 万葉集最大の歌人で万葉集の最終編纂者と目される大伴家持は、平城遷都8年後に名門大伴宿祢家の長子として誕生し、大納言大伴家の後を継ぎ、政界に浮沈を繰り返しながら、長岡京遷都の翌年に従三位中納言兼陸奥按察使鎮守将軍として68歳で没した。まさに奈良時代をそのまま生きた万葉びとである。
 万葉集は現存する日本最古の和歌集であり、世界に誇る最高の文化遺産である。万葉集全20卷はまとまって編纂されたものでなく、1卷ずつあるいは2、3卷まとめて出来ていった。古くは5、6世紀の伝承の歌から始まり、歴史時代に入って7世紀から歌の作者が確かになってゆく。その舒明天皇代(629年〜641年)から万葉時代といわれる。あるいは645年の大化改新をもってスタートと考えることも出来るだろう。
 万葉前期は天智、天武天皇と共に額田王が宮廷の歌人として非凡な才を現わし、続いて持統天皇代に柿本人麻呂が宮廷歌人的存在として活躍し、口誦で歌い継いで来た「うた」を文字に記して、読む歌として、文芸としての和歌に作り上げた。
 万葉後期、奈良時代に入ると、平城京という大都市を場に新しい生活と文化が興り、聖武天皇の宮廷歌人として笠金村と山部赤人が出て、金村は専門歌人としてその技巧を誇り、赤人は行幸従駕の中から風景や自然の景物に着目して歌い、大納言大伴旅人は最高の知識人として独自の余裕ある歌いぶりや表現を工夫し、山上憶良は漢籍・仏典をバックにした人生派歌人と称され、女流第一のトップレディ大伴坂上郎女は恋歌の歌い手として他の追随を許さない。
 奈良時代初期のこうした個性的な歌の勃興進展を経て、天平時代に大伴家持が生来の繊細な感受性と優れた美意識と言葉への鋭い感覚と父旅人から受けた最高の知識をもって当代一の歌人となり、万葉集に長歌、短歌合わせて473首もの歌を記録した。


◇「奈良時代の佐保と大伴家持」

                           佐保山茶論 岡本昭彦

 佐保はまほろば大和の歴史が秘めたられた地で、『古事記』にも垂仁天皇の時代(4世紀頃)のサホビメ・サホビコ物語が語られている。こうした由緒ある佐保の地に奈良時代、平城遷都により藤原京から高級貴族が移り住み、なかでも古来からの名族大伴氏の邸宅が佐保山茶論のあたりにあったといわれている。
 この佐保の大伴氏から『万葉集』に多くの秀歌を残した大伴旅人(おおとものたびと)、旅人の長子大伴家持(おおとものやかもち)、旅人の異母妹大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が輩出された。
 大伴家持は『万葉集』に最も多くの歌を残し、『万葉集』の最後の歌(759年に作歌)は大伴家持の詠んだ歌である。『万葉集』の最終期に登場した大伴家持は古(いにしえ)に詠まれた大和歌について研究し、『万葉集』の編纂に深く関わった。
 大和歌を集めた『万葉集』の時代の終焉まで連綿と続いた大和の歴史にふれると『万葉集』をより深く味わえる。神代の時代から連綿と続いた大伴家の栄光の歴史を追想する大伴家持の心底には併せて大和の歴史があったことであろう。
 平城宮跡大極殿正面から遠望すると、まほろば大和の歴史舞台の地が望める。南方向に明日香の山並とその向こうの吉野の山並、南西方向に葛城の山並、南東方向に山辺の山並とその向こうの宇陀の山並。こうした景色を目にした奈良時代の貴族も私たち同様、まほろば大和の歴史に思いを馳せたことであろう。


◇「大伴佐保本邸と坂上里宅」場所考
                           佐保山茶論 岡本昭彦

「大伴佐保本邸」
 平城京に遷都後大納言大伴安麻呂は佐保の大伴本邸に住んだので、万葉集では大納言大伴安麻呂のことを佐保大納言と呼称しています。安麻呂の嫡男が旅人で、旅人の嫡男が家持です。万葉学者川口常孝先生は著書「大伴家持」において、この大伴佐保本邸の場所は春日野荘及びその背後の地域にあったという説を唱えられています。大伴安麻呂が亡くなった後、大伴佐保本邸には嫡男の旅人が住んだはずです。
@石川足人が大宰府に長官として赴任している大伴旅人に贈った歌「さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君」をその根拠として重視します。春日山よりも佐保山を意識するような場所が大伴佐保本邸の場所を推定するにあたっての条件となります。
奈良の旧市街地の北部にある法蓮町を南北に縦断する「やすらぎの道」が佐保川に架かる佐保橋あたりでは山と言えば春日山に目がいきます。佐保山の裾野の春日野荘あたりになると、標高の低い佐保山でも間近に迫り、春日山より佐保山を意識するようになります。「佐保の山を思ふ」という表現は旅人が住む大伴佐保本邸から佐保山が春日山より意識される場所であったからに他ありません。
A門は南向きであったはずです。
B春日野荘の西、一条通りの同じ並びに藤原北家の佐保殿があったといわれています。一条南大路の北側は広い敷地がとれるので、高級貴族の邸宅にはうってつけの場所であったでしょう。
C現在の佐保川は河川改修により堤が整備され、当時の佐保川の幅は現在よりかなり広かったのではと思われます。また、洪水による被害を避けるため、佐保川のほとりではなく、佐保川に近いほどよい高所に居を構えたはずです。
D昭和29年に県立奈良高校(現在は春日野荘及び奈良県法蓮町庁舎。県立奈良高校は昭和39年〜43年に現在の所に移転した。)の敷地を発掘調査したとき及び昭和44年に春日野荘建設時にその敷地を発掘調査したときに奈良時代に大邸宅があったことが判明し、その敷地は約260b四方あったと推定されています。その規模からかなりな有力貴族の邸宅を想定されるとの報告がありました。惜しむらくはその時木簡は出土しなかったのでした。
以上@〜Dが私が川口説を支持する理由です。


「坂上里宅」
万葉集第4巻の「大伴郎女の和ふる歌」4首525〜528の左注で「・・・郎女は、坂上の里に家む。よりて族氏号けて坂上郎女といふ。」と記されているが、記したのは誰でしょうか。家持が記したのかもしれません。

 大伴坂上郎女が住んでいた「坂上里」の場所については私の父岡本雅彦が万葉文庫「萬葉」第31号(奈良県立橿原図書館刊)に寄稿した「大伴佐保本邸と坂上里宅」を基本的に支持します。
 
天皇(聖武天皇)に献る歌一首 
 大伴坂上郎女、佐保の宅に在りて作る
  ―あしひきの山にしをれば風流なみ我がするわざをとがめたまふな― (巻4、721)
 
岡本雅彦は上記の歌と佐保山の奥に坂畑という字名があったことに着目し、そのあたりに大伴坂上郎女が住んでいたのではと推定していましたが、私は岡本雅彦の坂畑では佐保山の奥になりすぎると思っておりました。後年、昭和30年頃作製された地図を見て興福院と現在の県立奈良高校の間が坂畑と呼ばれていたことが分かりました。大伴佐保本邸に住む旅人の妻の呼び名大伴郎女に対し、本邸の坂の上あたりに住んだので坂の上に住む郎女すなわち坂上郎女と呼んだと思います。興福院と現在の県立奈良高校の間は本邸から見ても佐保山の中であり、ここの高所から奈良時代、佐保川も眺望出来たはずです。他に考えられるのは、 「坂」はその語源を神と人との境である「境木」とする「榊 」からで、「上」は「ここより高い所」という意味ではなく「あたり」を意味していたとも言われていることから大伴坂上郎女は大伴本邸敷地の端のあたりに住んでいたとも言えるのではないでしょうか。
 以上のことから、大伴本邸の後背地域にある佐保山の裾野、佐保山の日当たりの良い北斜面の興福院と現在の県立奈良高校の間が大伴坂上郎女の住む「坂上の里」ではなかったかと推定しています。明治時代以前よりこの並びで開けている土地はここしかありません。しかし、「坂上の里」の「里」という表現は家持の文学的美称表現で「坂上の里」としたのではないかと私は想像します。歌の見出しに「大伴坂上郎女」あるいは「坂上家」(巻3,407〜408)と記したのは誰でしょうか。もし、それが家持なら「大伴坂上郎女」と呼んだのは家持だけの叔母にたいする歌の世界での号だったのでしょうか。




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